01 米軍上陸地点を望む(読谷村方面)
1945年4月1日 米軍は沖縄本島中部にある読谷村の海岸から上陸を開始すると、東海岸までを一気に制圧しまず島を南北に分断しました。そして主力部隊は、日本軍の司令部がある「首里」を目指し南下を始めるのです。対する日本軍は島の丘陵地形を巧みに利用し地下に塹壕を張り巡らせるなどの持久戦で待ち構えました。「首里(司令部)」を死守するため日米両軍は一進一退の死闘をくり広げました。
・嘉数高地の戦い(4月5日-4月23日)
・前田高地の戦い(4月24日-5月6日)
・シュガーローフの戦い(5月12日-5月18日)
しかし、圧倒的な兵力の差で日本軍は徐々に追い込まれていきました。
03 南風原陸軍病院(第20号壕)
日本陸軍の病院は当初那覇市の開南小学校に置かれましたが、1944年10月の空襲で校舎が焼失したため南風原国民学校に移転しました。また黄金森(くがにもり)と呼ばれる丘陵地一帯に約30カ所の病院壕が構築されました。陸軍病院内は外科・内科・伝染病科に分かれていましたが、戦闘がはじまり負傷兵が激増すると、外科を第一外科、内科を第二外科、伝染病科は第三外科に改められました。1945年3月下旬、沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校の生徒222人が18人の教師に引率され看護補助要員として陸軍病院に動員されました。彼女たちは‘ひめゆり学徒隊’と呼ばれています。また、眞玉橋ノブも第二外科(内科)の看護婦長として病院壕に入りました。ここ第20号壕は第二外科の中心的な壕でもあります。5月下旬 第32軍司令部は摩文仁への撤退を決定すると陸軍病院にも南部撤退命令が出されました。
03 南風原陸軍病院(飯上げの道)
陸軍病院に配属されたひめゆり学徒隊の任務のひとつに「飯上げ(めしあげ)」があります。飯上げとは、兵隊のための食事を運ぶことです。ふもとの集落にある飯炊き場から病院壕までの山道は「飯上げの道」と呼ばれ、女学徒たちは2人1組で一斗樽に入れた食料や水をかつぎ、足元もおぼつかない急な坂道を一日に何度も往復しました。飯上げは、激しい銃撃や砲弾が降り注ぐ中に行われる危険で過酷なものであり、まさに命がけの作業でした。
1990年 南風原町は沖縄戦の悲惨さを伝えるため第一外科壕群と第二外科壕群を文化財に指定しました。
2007年6月18日には20号壕を公開し、「飯上げの道」とともに平和学習の場に利用されています。
リンク:南風原町観光協会HP
05 陸軍病院第二外科壕(決死の伝令)
『戦闘が激化した6月下旬 第二外科の軍医は壕内に解散命令を出す前に部下の兵士を呼び、隣の壕にも解散を伝えるよう命令します。しかしその兵士は「アメリカ兵が壕を馬乗りして行けませんでした。」と臆して戻ってきてしまいました。その様子をみていた看護婦長は「軍医殿、眞玉橋と金城が伝令に行きます!」と申し出ました。二人の若き看護婦は雨のごとく降り続く砲弾や機銃の中、地面を這って隣の壕に解散命令を伝え、無事その任を果たしました。』
ひとりでも多くの命を救いたい。眞玉橋婦長の行動に崇高な赤十字精神と博愛の美徳を感じた。このEpisodeはノブと共に伝令を果たした金城サヱ子氏が「沖縄県看護協会30周年記念誌」に寄せた回想録で紹介されています。
06 陸軍病院第三外科壕(ひめゆり平和祈念資料館)
ひめゆり平和祈念資料館は、沖縄戦に看護補助要員として動員されたひめゆり学徒隊の戦争体験を伝えるため1989年6月23日にひめゆり同窓会が設立しました。戦争の犠牲となった全ひめゆり学徒の遺影や遺品、生存者の証言映像や手記等が展示されています。また館内には伊原第三外科壕の再現模型もあり壕内部の様子を追体験することができます。女学徒たちの体験を通して沖縄戦の実態と悲惨さを後世に伝え遺すとともに、平和の尊さを学ぶことができる平和学習施設です。ひめゆりの塔や資料館には、今日も多くの人々が訪れ平和への祈りを捧げています。
リンク:ひめゆり平和祈念資料館HP
07 二人の島守(しまもり)
糸満市の平和祈念公園内には沖縄戦で犠牲となった県庁職員を慰霊する「島守の塔」があります。またその塔を見守るように「沖縄県知事島田叡・沖縄県警察部長荒井退造 終焉之地」と書かれた碑が建っています。「島守の塔」は第27代沖縄県知事を務めた島田叡と当時の警察部長荒井退造をはじめ県庁職員458人を合祀する塔として、1951年6月25日に建立されました。また背後の石碑には「終焉之地」とありますが、島田知事と荒井警察部長の消息は不明であり、二人の遺骨は現在も発見されていません。1945年6月沖縄戦の終結時、島田は43歳、荒井は44歳でした。二人はどのような人物だったのでしょうか。
第27代官選沖縄県知事 嶋田叡
島田叡は1945年1月31日 内務省の任命を受けた官選知事として前任の泉知事に代わって沖縄県知事に就任しました。開戦間近の沖縄への赴任は命を落とすことさえ確実視されている情勢下、当時大阪府の役人だった島田はこの話を断ることもできましたが「誰かが、どうしても行かなならんとあれば、言われた俺が断るわけにはいかんやないか。俺は死にたくないから、誰か代わりに行って死んでくれ、とはよう言えん。」と知事就任を即決しました。当時の沖縄は昼夜を問わず米軍機からの空襲や艦砲射撃が相次ぎ、米軍上陸も時間の問題とされていた時期でした。それでも島田知事は就任から県庁解散までの約5ヶ月間、県民の疎開政策や食糧確保に尽力し、最期まで県民の生命と安全を守るために戦いました。
沖縄県警察部長 荒井退蔵
荒井退蔵は栃木県宇都宮市の出身で島田の前任者である泉知事と同じ時期に沖縄県に赴任しました。開戦目前の県知事交代というまさに県政の混乱期において、荒井は警察を統率しながら県政を支え県民の救済策にも積極的に取り組みました。警察部長でありながら県庁職員や軍関係者などの相談にも快く応じるなど、周囲からの荒井の信頼度の高さが伺えます。島田知事の赴任後は二人三脚で県民の救済政策を推進させ、多くの住民を救ったことから、島田と荒井は「沖縄の島守」として今でも深く人々に慕われ続けています。
09 平和祈念公園・平和祈念資料館
平和祈念公園がある糸満市南部の一帯は「摩文仁の丘」とも呼ばれ、沖縄戦が終結した場所です。約40ヘクタールの広大な園内には平和祈念資料館をはじめ、沖縄平和祈念堂、国立沖縄戦没者墓苑、平和の礎、黎明の塔など戦没者への慰霊を捧げるとともに、平和の尊さを見つめ直すことができる施設が点在します。なかでも、平和祈念資料館は壮絶な沖縄戦の実相を学ぶことができる平和学習施設として活用されています。沖縄県では毎年6月23日を「慰霊の日」と定め、平和記念公園内で「沖縄全戦没者追悼式」が開催されます。
リンク:平和祈念資料館HP