History of Mother Nurse
眞玉橋ノブのあゆみ
Ⅰ. 古都首里に生まれ 看護の世界へ 
History of Mother Nurse 眞玉橋ノブのあゆみ

1918年11月21日 眞玉橋ノブはかつて琉球王国の都であった沖縄県首里市に生まれました。幼い頃から心優しい性格だった少女は、小学校の校長先生であった父の影響もあって、いつしか「誰かの役に立ちたい」という気持ちが自然と芽生えていました。

13歳になると、沖縄の教育者を多く輩出する名門 沖縄県立第一高等女学校へと進学します。しかし、当時の日本は周辺諸外国との戦争を繰り広げていた戦乱の時代、いつしかノブの心には「この国のために女性の私にもできること」と看護婦の道を志すようになり、卒業後は日本赤十字社沖縄県支部の救護看護婦養成所に入所、赤十字看護婦としての人生をスタートさせました。戦乱の時代に看護婦を目指すということは、どれほど大変な勇気が必要なことであったか、その決断には家族の深い理解協力がなければ困難なことでした。

赤十字救護看護婦養成所時代の仲間たちと(ノブ右から2番目) 赤十字救護看護婦養成所時代の仲間たちと(ノブ右から2番目)
小倉陸軍衛戍病院時代の仲間たちと(ノブ右下) 小倉陸軍衛戍病院時代の仲間たちと(ノブ右下)

養成所を卒業後、しばらくは母校である沖縄県立第一高等女学校や沖縄女子師範学校の衛生婦を勤めますが、1937年日中戦争がはじまると、その2年後には北九州にある小倉陸軍病院に救護班要員として招集され、従軍看護婦としての実践の日々をスタートさせます。

日夜を問わず満州、北支、南支から運ばれてくる山のような傷病兵を目の前に「兵隊以上に頑張らなければ」と赤十字看護婦としての誇りを胸に、不眠不休で看護に献身し、最終的には重症病棟の管理責任者まで務めあげました。そして、招集解除となる約4年8か月もの間、戦争という現実を目の当たりにしながらも、厳しい従軍看護の職責を果たし、故郷沖縄へと戻りました。ノブ25歳のことでした。

1943年春 沖縄へ帰ると再び母校 第一高等女学校の衛生婦となりますが、帰郷から2年前の1941年に太平洋上で日本とアメリカが開戦しており、戦争の足音は一歩一歩沖縄にも近づいてきていました。そうしてノブは、後に「ひめゆり学徒」となる教え子たちにも、直接救急法を指導することになっていくのです。

Ⅱ. 従軍看護婦として 沖縄戦を戦う①
History of Mother Nurse 眞玉橋ノブのあゆみ

1944年10月10日 突如米軍は那覇の街を5度にわたり空襲しました。十十空襲です。この空襲で那覇市開南にあった沖縄陸軍病院施設は焼失し、南風原国民学校の校舎に移転することとなりました。さらに校舎の裏山一帯(黄金森:くがにもり)に約30の横穴壕が掘られ、米軍の艦砲射撃がはじまる1945年3月下旬には病院機能は各壕内へと移されました。

時を同じくして、沖縄県立第一高等女学校と沖縄師範学校女子部に「ひめゆり学徒隊」が編成され、3月24日、ついに彼女たちは軍隊の看護補助要員として南風原の陸軍病院に動員されました。そして教え子たちの後を追うように、ノブも自ら志願し沖縄陸軍病院の第二外科婦長として戦地へ赴くことになるのです。

那覇の街を空襲する米軍機  ©那覇市歴史博物館那覇の街を空襲する米軍機 ©那覇市歴史博物館
1945.4.1沖縄本島へ上陸する米軍 ©那覇市歴史博物館1945.4.1沖縄本島へ上陸する米軍 ©那覇市歴史博物館

4月1日ついに米軍が沖縄本島への上陸を開始しました。激しい地上戦で日増しに激増する傷病者の数はとても壕内に収容しきれず、壕の入口まで並べられた傷病者の救護に、ノブや女学徒たちは自らの命の危険も顧みず約3000人余の傷病者の救護看護に献身しました。病院とは名ばかりの十分な灯りも滅菌器具もない壕内は、ウジやシラミなど、むせかえるような息吹とウミの悪臭に満ち、戸板を並べただけの二段病床には重症患者が重ねられ、まさにこの世の生き地獄のような状況でした。そのような状況下において不眠不休で7つの壕を駆け廻るノブの姿に、いつしか傷病兵たちは「眞玉橋先生はいつきてくれるのか」と慈母のごとく待ち焦がれ慕いました。また壕内の仮眠所では一度も休む姿をみたことがないなど、その生命力と使命感の強さに誰もが勇気づけられました。

看護婦長として常に沖縄戦の最前線で負傷兵たちを手厚く看護するノブの姿は、女学徒や部下の看護婦たち医師を常に励まし、赤十字精神に持ちあふれる崇高な姿に、負傷兵たちも畏敬の念でいっぱいでした。

Ⅲ. 従軍看護婦として 沖縄戦を戦う②
History of Mother Nurse 眞玉橋ノブのあゆみ

5月下旬、軍司令部より本島南部摩文仁への撤退命令が出されると、陸軍病院第二外科は南風原の壕から糸洲集落(現糸満市)にある自然壕へと移動します。本島南部への撤退は、「鉄の暴風」と呼ばれるほどおびただしい量の砲弾を避けるため夜間に行われましたが、それでも負傷兵を抱えながらの移動は決死の覚悟でした。

6月18日 南部の戦況を視察したバックナー司令官が日本軍の狙撃により戦死すると米軍の猛攻は一層激しさを増し、手当たり次第に壕には火炎放射や砲弾が見舞われました。しかしその同じ日に、戦局に見切りをつけた軍医は、陸軍病院の解散命令を下したのです。

米軍の攻撃は「鉄の暴風」とも呼ばれた ©那覇市歴史博物館米軍の攻撃は「鉄の暴風」とも呼ばれた ©那覇市歴史博物館
壕を焼き尽くす米軍戦車(火炎放射)©那覇市歴史博物館壕を焼き尽くす米軍戦車(火炎放射)©那覇市歴史博物館

「兵は摩文仁の本隊へ合流せよ、看護婦と学徒は親もとへ帰れ」 また、軍医は上等兵に、隣の壕に解散命令の伝令を命じますが、壕の外で米軍の銃撃を受けた伝令兵は逃げ戻ってきました。臆した兵にノブは「軍医どの、眞玉橋と金城が伝令に行きます!」と部下の看護婦とともに照明弾と機銃のなかを匍匐前進で伝令に向かい、見事にその任務を果たしたのです。「私が死んだら、あなたが役目を果たしなさい」「あなたが死んだら、私が伝令を果たします」このときの状況を金城サヱ子氏は、一人でも多くの命を助けたい。その一心からの婦長の行動に崇高な赤十字精神と博愛の美徳を感じたと回想していました。

6月19日 第二外科壕にも米軍による馬乗り攻撃がはじまり、壕内にガス弾が投げ込まれます。この時ノブたちは壕内を流れる川の水でガーゼを湿らせて口を塞ぎ、冷静沈着な対応で全員を生還させました。6月21日 最後まで壕内で救護の任に当たっていたノブは、摩文仁に向かう途中でついに降伏し、米軍の捕虜となるのです。

Ⅳ. 沖縄と看護 ゼロからの再建
History of Mother Nurse 眞玉橋ノブのあゆみ

悲惨な戦争ですべてが焼き尽くされた沖縄 負傷者や病人がたくさんいる一方で、医師も看護婦も全てが足りない状況でした。戦後米軍の捕虜となったノブでしたが、自ら収容所内の医療施設に出向いては看護に当たります。これはひとりの看護婦として自然の行動でした。

終戦の翌年(1946年)1月 コザにある孤児院への勤務を命じられ、戦争孤児たちの養育・教育に携わります。ノブは身寄りのない孤児たちの健康管理に配慮し、母親と同じようにやさしく接っしてあげました。

同年4月、沖縄民政府が創立し沖縄中央病院の看護婦長に任命されると、いよいよ沖縄看護の再建がスタートします。ノブが最初に取り組んだことは医師と看護婦の人手不足を補うため看護教育を再開することでした。そこで彼女は米軍や医師たちの協力と理解を得ることで、沖縄中央病院や宜野座、名護の各病院に病院附属の看護婦学校を設置しました。当時の看護婦学校は三カ年制の厳しいものでしたが、貧しくとも優秀な学生が入学し教師も学生も熱意に燃えていました。

コンセット型の病院兵舎でノブから戴帽を受ける看護師たちコンセット型の病院兵舎でノブから戴帽を受ける看護師たち
コンセット型の病院兵舎でノブから戴帽を受ける看護師たちコンセット型の病院兵舎でノブから戴帽を受ける看護師たち

戦後十分な教科書や教材も不足している状態でしたが、ノブら教師は自分達が受けた看護教育を思い出しながら懸命に指導にあたりました。また誰がどこから持ってきたかも分からない本物の人骨や、看護学全書の一部があったので、みなで必死に写本しました。この時代に育った学生たちは、後の看護界のリーダーとして沖縄看護の発展に大きな原動力となりました。戦後の無から有を創りだす大きなエネルギーと使命感の強さが感じられます。

終戦後あらゆる分野で専門的に働く人材が極度に不足しており看護婦も同様でした。そこで、戦争で学業の中断を余儀なくされた学生や赤十字看護婦養成所の卒業生に対し、看護婦検定試験を実施することで、その身分と資格を復活させました。

1948年に入ると米軍基地内にある病院を活用した看護職員研修がはじまります。レベルの高いアメリカ式看護の直接的な実習や軍政府から派遣された看護指導者による研修は、沖縄の看護水準を効率的に高め現場に活力を与えました。翌年ノブは沖縄中央病院附属看護学校の主事(校長)を命じられると、総婦長としての病院勤務に教師としての学生指導と実に多忙な日々を送ることになるのです。

Ⅴ. 仲間たちとつくりあげた礎
History of Mother Nurse 眞玉橋ノブのあゆみ

1950年、運命の出会いがノブに訪れます。「看護に国境はない。沖縄の看護を国際基準まで引き上げる」そう公言していたアメリカ公衆衛生院の看護顧問、ワニタ・ワーターワース女史が沖縄に着任したのです。ワニタ女史は1960年までの10年間を沖縄に滞在し、琉球政府立中央病院の婦長であったノブと共に沖縄の近代看護を確立するための大胆な改革を推進しました。

二人が最初に着手したのは病院における看護業務の改善でした。その後も看護教育の拡充から看護協会の設立まで、ワニタは沖縄看護の未来を見据えたさまざまな提言や助言を行い、速やかに実行していきます。将来的な看護指導者の育成を考慮し、ノブと共に沖縄各地の高校を訪問し優秀な学生の獲得にも奔走しました。さらには看護婦学校が将来、琉球大学に移行することを想定して、公衆衛生局設置の看護婦学校でも大学単位が取得できる制度を大学側に働きかけ実現させます。この画期的な制度は1951年4月から1971年3月までの約20年間続き、大学レベルの看護教育を実施することができ、沖縄の看護教育水準を劇的に高める効果があったとされています。

ノブとワニタ、二人の絆が看護の再建の原動力となった。ノブとワニタ、二人の絆が看護の再建の原動力となった。
米軍看護顧問 ワニタ・ワーターワース女史米軍看護顧問 ワニタ・ワーターワース女史

ワニタはノブに最先端の看護知識と国際感覚を身につけさせるため、アメリカ本国での研修や実習にも参加させました。また、二人は戦前から結核やマラリア、フィラリアなどの感染症が蔓延していた沖縄の衛生環境を改善すべく、沖縄本島の各地から離島にまで足を運び、感染症の撲滅と現地の医療事情の改革に務めました。感染症の罹患を恐れずに離島に向かうノブたちに対し、米軍も専用機や将校宿舎を提供するなど、その活動を支援し続けたとされています。

1951年ワニタ女史の助言により、ノブが初代会長となって立ち上げた沖縄群島看護婦協会は、後の沖縄県看護協会に発展。1952年から14年間勤め上げた琉球政府厚生局では、医政課看護係長として、看護行政の整備や戦争で失われた看護職免許の復活、本土や海外への研修派遣など、沖縄看護の基盤づくりとなる地道な活動を続けました。

Ⅵ. 世界最高の栄誉を ひめゆりたちへ
History of Mother Nurse 眞玉橋ノブのあゆみ

戦争がもたらした逆境から始まり、その逆境に後押しされたともいえる沖縄看護の黎明期。ノブやワニタをはじめとする医療、看護関係者のたゆまぬ努力の結晶として、1950年代に沖縄の近代看護は飛躍的な発展を遂げ、60~70年代には日本国内トップレベルの看護水準を達成しました。

1972年沖縄の本土復帰によって世相はめまぐるしく変化しましたが、沖縄の看護力の向上に尽力するノブの姿勢は少しも変わらず、琉球政府立中部病院の看護課長、琉球大学付属病院の総看護婦長(後に看護部長)を歴任。62歳で就任した那覇市立病院初代総看護婦長の時代には、地域に密着した看護を目標とし、国立琉球大学医学部保健学科や県立那覇看護学校、浦添看護学校の実習病院として後輩たちを受け入れ指導にあたりました。そして、1985年3月惜しまれながら那覇市立病院を退職したノブにとって、数か月後思いがけない出来事がおこるのです。

同年5月全ての看護婦にとって世界最高の名誉である「フローレンス・ナイチンゲール記章」がノブに贈られました。戦時看護を含む約46年間にわたる看護活動の功績を称えられての受賞でしたが、受賞後の挨拶でノブは「沖縄戦で亡くなったひめゆり部隊の乙女たちや看護婦たち、そして沖縄県内全ての看護婦を代表しての受賞です。」とその胸の内を語りました。「フローレンス・ナイチンゲール記章」受賞の栄誉は、ノブに続くあまたの後輩たちへも看護職への誇りと励ましの贈りものとなりました。

美智子妃殿下(当時)よりF・ナイチンゲール記章を受けるノブ ©日本赤十字社美智子妃殿下(当時)よりF・ナイチンゲール記章を受けるノブ
©日本赤十字社
1985年 第30回F・ナイチンゲール記章受章式のノブ ©日本赤十字社1985年 第30回F・ナイチンゲール記章受章式のノブ ©日本赤十字社

「聞く人のおもしろい話になってはいけないから」と沖縄戦での体験を含めて自身については多くを語らず、穏やかで控え目でありながらも、どこか凛とした気品が漂う風格は、同僚や医師から‘看護の母’と慕われました。

時代の流れを先読みし、深い情熱とゆるぎない精神力をもって看護の道を究め、赤十字が掲げる「献身と博愛の精神」を体現したといえるその生きざまは「天使とは美しい花を散らすものではなく、苦悩するもののために戦うものである」と遺した、クリミアの天使、フローレンス・ナイチンゲールの姿とも重なります。

67歳で第一線を退いた後のノブは、ボランティア活動や看護職能団体の後進育成などにつとめながら穏やかな晩年を過ごし、86歳でその激動の人生に幕を下ろしました。

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