Ⅲ. 従軍看護婦として 沖縄戦を戦う②
5月下旬、軍司令部より本島南部摩文仁への撤退命令が出されると、陸軍病院第二外科は南風原の壕から糸洲集落(現糸満市)にある自然壕へと移動します。本島南部への撤退は、「鉄の暴風」と呼ばれるほどおびただしい量の砲弾を避けるため夜間に行われましたが、それでも負傷兵を抱えながらの移動は決死の覚悟でした。6月18日 南部の戦況を視察したバックナー司令官が日本軍の狙撃により戦死すると米軍の猛攻は一層激しさを増し、手当たり次第に壕には火炎放射や砲弾が見舞われました。しかしその同じ日に、戦局に見切りをつけた軍医は、陸軍病院の解散命令を下したのです。
「兵は摩文仁の本隊へ合流せよ、看護婦と学徒は親もとへ帰れ」 また、軍医は上等兵に、隣の壕に解散命令の伝令を命じますが、壕の外で米軍の銃撃を受けた伝令兵は逃げ戻ってきました。臆した兵にノブは「軍医どの、眞玉橋と金城が伝令に行きます!」と部下の看護婦とともに照明弾と機銃のなかを匍匐前進で伝令に向かい、見事にその任務を果たしたのです。「私が死んだら、あなたが役目を果たしなさい」「あなたが死んだら、私が伝令を果たします」このときの状況を金城サヱ子氏は、一人でも多くの命を助けたい。その一心からの婦長の行動に崇高な赤十字精神と博愛の美徳を感じたと回想していました。
6月19日 第二外科壕にも米軍による馬乗り攻撃がはじまり、壕内にガス弾が投げ込まれます。この時ノブたちは壕内を流れる川の水でガーゼを湿らせて口を塞ぎ、冷静沈着な対応で全員を生還させました。6月21日 最後まで壕内で救護の任に当たっていたノブは、摩文仁に向かう途中でついに降伏し、米軍の捕虜となるのです。