Ⅴ. 仲間たちとつくりあげた礎 
1950年、運命の出会いがノブに訪れます。「看護に国境はない。沖縄の看護を国際基準まで引き上げる」そう公言していたアメリカ公衆衛生院の看護顧問、ワニタ・ワーターワース女史が沖縄に着任したのです。ワニタ女史は1960年までの10年間を沖縄に滞在し、琉球政府立中央病院の婦長であったノブと共に沖縄の近代看護を確立するための大胆な改革を推進しました。

二人が最初に着手したのは病院における看護業務の改善でした。その後も看護教育の拡充から看護協会の設立まで、ワニタは沖縄看護の未来を見据えたさまざまな提言や助言を行い、速やかに実行していきます。将来的な看護指導者の育成を考慮し、ノブと共に沖縄各地の高校を訪問し優秀な学生の獲得にも奔走しました。さらには看護婦学校が将来、琉球大学に移行することを想定して、公衆衛生局設置の看護婦学校でも大学単位が取得できる制度を大学側に働きかけ実現させます。この画期的な制度は1951年4月から1971年3月までの約20年間続き、大学レベルの看護教育を実施することができ、沖縄の看護教育水準を劇的に高める効果があったとされています。

ワニタはノブに最先端の看護知識と国際感覚を身につけさせるため、アメリカ本国での研修や実習にも参加させました。また、二人は戦前から結核やマラリア、フィラリアなどの感染症が蔓延していた沖縄の衛生環境を改善すべく、沖縄本島の各地から離島にまで足を運び、感染症の撲滅と現地の医療事情の改革に務めました。感染症の罹患を恐れずに離島に向かうノブたちに対し、米軍も専用機や将校宿舎を提供するなど、その活動を支援し続けたとされています。

1951年ワニタ女史の助言により、ノブが初代会長となって立ち上げた沖縄群島看護婦協会は、後の沖縄県看護協会に発展。1952年から14年間勤め上げた琉球政府厚生局では、医政課看護係長として、看護行政の整備や戦争で失われた看護職免許の復活、本土や海外への研修派遣など、沖縄看護の基盤づくりとなる地道な活動を続けました。
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