Ⅵ. 世界最高の栄誉を ひめゆりたちへ 
戦争がもたらした逆境から始まり、その逆境に後押しされたともいえる沖縄看護の黎明期。ノブやワニタをはじめとする医療、看護関係者のたゆまぬ努力の結晶として、1950年代に沖縄の近代看護は飛躍的な発展を遂げ、60~70年代には日本国内トップレベルの看護水準を達成しました。

1972年沖縄の本土復帰によって世相はめまぐるしく変化しましたが、沖縄の看護力の向上に尽力するノブの姿勢は少しも変わらず、琉球政府立中部病院の看護課長、琉球大学付属病院の総看護婦長(後に看護部長)を歴任。62歳で就任した那覇市立病院初代総看護婦長の時代には、地域に密着した看護を目標とし、国立琉球大学医学部保健学科や県立那覇看護学校、浦添看護学校の実習病院として後輩たちを受け入れ指導にあたりました。そして、1985年3月惜しまれながら那覇市立病院を退職したノブにとって、数か月後思いがけない出来事がおこるのです。

同年5月全ての看護婦にとって世界最高の名誉である「フローレンス・ナイチンゲール記章」がノブに贈られました。 戦時看護を含む約46年間にわたる看護活動の功績を称えられての受賞でしたが、受賞後の挨拶でノブは「沖縄戦で亡くなったひめゆり部隊の乙女たちや看護婦たち、そして沖縄県内全ての看護婦を代表しての受賞です。」とその胸の内を語りました。「フローレンス・ナイチンゲール記章」受賞の栄誉は、ノブに続くあまたの後輩たちへも看護職への誇りと励ましの贈りものとなりました。

「聞く人のおもしろい話になってはいけないから」と沖縄戦での体験を含めて自身については多くを語らず、穏やかで控え目でありながらも、どこか凛とした気品が漂う風格は、同僚や医師からの‘看護の母’と慕われました。

時代の流れを先読みし、深い情熱とゆるぎない精神力をもって看護の道を究め、赤十字が掲げる「献身と博愛の精神」を体現したといえるその生きざまは「天使とは美しい花を散らすものではなく、苦悩するもののために戦うものである」と遺した、クリミアの天使、フローレンス・ナイチンゲールの姿とも重なります。

67歳で第一線を退いた後のノブは、ボランティア活動や看護職能団体の後進育成などにつとめながら穏やかな晩年を過ごし、86歳でその激動の人生に幕を下ろしました。
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