Ⅳ. 沖縄と看護 ゼロからの再建 
悲惨な戦争ですべてが焼き尽くされた沖縄 負傷者や病人がたくさんいる一方で、医師も看護婦も全てが足りない状況でした。戦後米軍の捕虜となったノブでしたが、自ら収容所内の医療施設に出向いては看護に当たります。これはひとりの看護婦として自然の行動でした。

終戦の翌年(1946年)1月 コザにある孤児院への勤務を命じられ、戦争孤児たちの養育・教育に携わります。ノブは身寄りのない孤児たちの健康管理に配慮し、母親と同じようにやさしく接っしてあげました。

同年4月、沖縄民政府が創立し沖縄中央病院の看護婦長に任命されると、いよいよ沖縄看護の再建がスタートします。ノブが最初に取り組んだことは医師と看護婦の人手不足を補うため看護教育を再開することでした。そこで彼女は米軍や医師たちの協力と理解を得ることで、沖縄中央病院や宜野座、名護の各病院に病院附属の看護婦学校を設置しました。当時の看護婦学校は三カ年制の厳しいものでしたが、貧しくとも優秀な学生が入学し教師も学生も熱意に燃えていました。

戦後十分な教科書や教材も不足している状態でしたが、ノブら教師は自分達が受けた看護教育を思い出しながら懸命に指導にあたりました。また誰がどこから持ってきたかも分からない本物の人骨や、看護学全書の一部があったので、みなで必死に写本しました。この時代に育った学生たちは、後の看護界のリーダーとして沖縄看護の発展に大きな原動力となりました。戦後の無から有を創りだす大きなエネルギーと使命感の強さが感じられます。

終戦後あらゆる分野で専門的に働く人材が極度に不足しており看護婦も同様でした。そこで、戦争で学業の中断を余儀なくされた学生や赤十字看護婦養成所の卒業生に対し、看護婦検定試験を実施することで、その身分と資格を復活させました。

1948年に入ると米軍基地内にある病院を活用した看護職員研修がはじまります。レベルの高いアメリカ式看護の直接的な実習や軍政府から派遣された看護指導者による研修は、沖縄の看護水準を効率的に高め現場に活力を与えました。翌年ノブは 沖縄中央病院附属看護学校の主事(校長)を命じられると、総婦長としての病院勤務に教師としての学生指導と実に多忙な日々を送ることになるのです。
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